日本の洋食器展示室 展示品

昔の匙(さじ)

燕で金属洋食器がつくられる遙か以前、人々はどのような食具を使っていたのでしょうか。
日本各地の遺跡から石匙や木製の柄杓が見つかっていることから、石匙をナイフのように使ったり、木製の柄杓で食事をすくったりしていた様子が想像できます。

昔の匙(さじ)

金属洋食器との出会い

文明開化で都市部に洋風化の波がおし寄せはじめたころ、燕は銅器を中心に家庭用品、農具を製造する人口5000 人ほどの町でした。
1911(明治44)年、東京銀座の輸入商十一屋商店が石油王の自宅用カトラリーを受注します。
白羽の矢が立ったのは銅器の産地として知られた燕の棒(ささげ)吉右エ門(きちえもん)でした。これが燕と金属洋食器の出会いとなりました。

金属洋食器との出会い

金属洋食器生産のはじまり

1914(大正3)年、第一次世界大戦によってヨーロッパの工場は軍需生産への転向を余儀なくされます。
生活用品の供給は滞り、不足分の注文が日本に集中します。
このとき燕には、輸入商を通してスプーンとフォークの大量注文が舞いこみます。
ちょうど銅器が不振で洋食器への転換を考えていた燕は、これまで培ってきた技術を生かし、難しい注文にも見事にこたえました。
こうして燕の金属洋食器生産がはじまりました。

金属洋食器生産のはじまり

伸びる国産需要

1923(大正12)年に起きた関東大震災をきっかけに、都市部の洋風化はさらに進みます。
また、1925(大正14)年、当時の浜口蔵相が打ち出した国産品保護育成策で、輸入品の税率が上がり、金属洋食器の国内需要はさらに伸びていきます。
燕の金属洋食器業界は機械化を進めて高まる需要にこたえ、やがては宮内省や華族会館などへも納入されるまでになりました。

伸びる国産需要

機械生産への取り組み

1918(大正7)年、燕に動力機械が導入されます。
パワープレスは小林乙蔵工場(現:小林工業株式会社)が、フレキションプレスは松岳堂(現:遠藤工業株式会社)が最初に導入したとされます。
昭和初期、早川鉄工所で機械が製造されるようになり、地元での機械調達が可能になりました。
こうした機械生産への取り組みが、伸銅所の進出とともに、後の産業発展の土台となりました。

機械生産への取り組み

世界にひろがる販路

昭和初期、金属洋食器の国内需要が伸びたとはいえ、国内だけでは限りがありました。
さらなる販路獲得のため乗りこんだ東南アジアで、「ヨーロッパ製品よりも値段が安い」と好評を博し、多くの注文が入るようになりました。
その後、欧米や中南米、アフリカにまで販路を広げ、輸出量は大きく伸びます。
そして、金属洋食器産業はついに燕「産地産業」の主役の座を獲得します。

世界にひろがる販路

金属洋食器の製造中止

1940(昭和15)年、「奢侈品等製造販売制限規則」(七・七禁令)の発令によって、金属洋食器の生産は全面的に禁止されます。
ようやく日本人の生活にとけこんできたスプーンやフォークも、ぜいたく品とされてしまったのです。
技術保存のために燕では7社だけが残されましたが、そのほかの会社や工房は軍需産業に転業せざるを得ませんでした。

金属洋食器の製造中止

苦境を救ったステンレスの技術開発

アメリカへの輸出を順調に伸ばしていた1951(昭和26)年、「錆が出た」という苦情が寄せられ売れ行きが落ち込みました。
燕の技術者は急きょアメリカに赴き、ステンレスのクズを熔解再生する技術を習得し、安価で高品質の原料入手により苦境を脱します。
また、表面の汚れを取りのぞく電解研磨の研究開発により、燕のステンレス製洋食器の品質は格段に向上しました。

苦境を救ったステンレスの技術開発

デザインへのめざめ

昭和30年代の燕の輸出用金属洋食器は、外国の見本をもとにつくられていました。まだ「世界の下請け工場」に甘んじていたのです。
このころから製造技術を切り売りするのではなく、世界に通用する独自のデザインを探るようになります。
デザイナーにデザインを依頼する試みもはじまり、洋食器業界に新たな刺激をもたらしました。

デザインへのめざめ

貿易摩擦と金属洋食器産業

金属洋食器の対アメリカ輸出額の急伸に対し、アメリカの製造業者は危機感をつのらせ、輸入制限運動をおこしました。
1957(昭和32)年4月、ついに輸入制限が発動されます。燕は輸入制限撤廃を求め陳情団をアメリカに送って対抗しました。
この逆境のなか、ほかに販路を求めるもの、金属洋食器以外に活路を見出すものなど、燕は新たな道を探しはじめました。

貿易摩擦と金属洋食器産業

外食産業と金属洋食器

1970(昭和45)年は「外食元年」とよばれます。
様々な外食産業が登場し、そこで一日に何回も使用されるスプーンやフォークは、耐久性はもとより、機能性や清潔さ、美しさを満たすことが基本条件になります。燕の製品は、この条件を満たしていました。
1971(昭和46)年のドルショックは、国内市場への転換を加速させ、外食産業に燕の製品がより深く浸透していくきっかけになりました。

外食産業と金属洋食器

新市場の開拓

昭和50年代半ばころからの輸出の衰退で苦境に立たされた燕の金属洋食器産業は、中近東やアフリカ方面への販路を拡大させます。
また金属だけではなく、プラスチック製洋食器の開発など、新市場を求めたり、新素材を取り入れるなど旺盛な活力によって苦境に立ち向かいました。
この開拓精神こそが、燕「産地産業」の強さの原点といえるでしょう。

新市場の開拓

「食具(しょくぐ)」の原点へ

つくれば売れる時代からより良いものへの社会の変化にともない、燕の洋食器も日々進化を続けています。
世界に認められるデザインや、使う人に優しい機能を追及しながら、洋食器の新たな可能性も広がっています。
燕の洋食器のつくり手たちは、わたしたちの食生活に欠かせない「食具」をさらに極めようと、その歩みを止めることはありません。

「食具(しょくぐ)」の原点へ